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小野友五郎とは

和算、測量、天文学、造船、鉄道、製塩等、多岐に渡りその才能を発揮した小野友五郎。
ここでは小野友五郎が生前どのような軌跡を辿り偉業を成し遂げたのか。搔い摘んでご紹介させて頂きます。

1817年(文化14年)

常陸国笠間藩士の家に誕生。                             

16歳から笠間藩算術世話役甲斐駒蔵のもとで和算・測量術を学び、努力を重ねた結果めきめきと頭角を現していく                                                         

24歳で江戸詰めとなり長谷川算学道場に入門して算術を修める。
友五郎は後に道場最高位の斎長になっている。

1852年(嘉永5年)

師の甲斐駒蔵と測量の方法を記した「量地図説」上下巻を著す。
この年、「幕府天文方」に出仕となり暦の編集や冬至・夏至など天文学を学ぶ。
2の頃江戸川担庵のもとで、砲術と砲台建設の勉強をしている。                       

1854年(安政元年)に大洋の航海法を記した「渡海新編」四巻を和訳、幕府に献上。翌1855年に幕府が開設した「長崎海軍伝習所」一期生に派遣され、代数、幾何学、微積分学を習得。更に航海術、砲術、天文学、造船術、機関学等多くを学んでいる。伝習を終えた1857年には幕府の蒸気艦観光丸を日本人のみで操縦し江戸に戻り、築地に出来た軍艦操船所教授となった。

1860年(安政7年)

1月に日米修好通商条約を結ぶ遣米使節団を乗せるポーハタン号の随行艦「咸臨丸」航海長として渡米する。

1861年(文久元年)

幕臣に登用され軍艦奉行となる。12月に咸臨丸艦長として小笠原群島の回収測量を行い、翌年2月に群島の実測図を完成させている。
1862年、以前から友五郎が必要性を建言していた国産蒸気軍艦建造が1861年に承認され、小型蒸気艦が建造開始された。

国産初の蒸気艦「千代田形」の基本設計を友五郎が担当。
起工式が水戸藩の造船所である石川島造船所で行われる。              この年、幕府へ江都海防真論七巻を献上する。
1863年5月軍艦頭取を命じられ、12月には勘定組頭を命じられる。1864年8月に長州征伐御用を命じられ、11月には勘定奉行の小栗上野介らと横浜・横須賀製鉄所の建設候補地の実地調査を行う。

1867年(慶応3年)

1月、小野使節団正使として二度目の渡米をする。副使に松本寿太夫、外国方に福沢諭吉、通弁に津田仙弥、尺振八などの歴史的人物を従え南北戦争後の余剰軍艦の購入が目的であった。
パナマ地峡・ニューヨークとワシントン間を初めて汽車旅行している。ホワイトハウスで17代A・ジョンソン大統領と謁見し、蒸気装甲艦ストーンウォール(日本名甲鉄)や兵器類を購入している。
帰国後、友五郎は勘定頭取、勘定奉行並へと昇進している。                  
10月に徳川慶喜は大政奉還をする。

翌1869年1月鳥羽伏見の戦いの兵站掛を命じられ参戦するも敗戦する。友五郎は大阪城内の軍用金18万両を江戸に移送する事に成功するも、4月永預格(禁固刑)揚座敷入りを申し渡され投獄。6月主家お預けとなり出獄する。
この頃、友五郎が購入した軍艦等が到着するも皮肉にも明治維新政府の所有となる。

1870年(明治3年)4月

民部省鉄道掛へ出仕する。日本の富国殖産にはアメリカで体験した鉄道の必要性を強く感じていた。
日本初の鉄道である 新橋ー横浜間の鉄道建設は資金も技術も英国の協力を仰ぎ建設されている。

その様な中、日本側測量技師長として敏腕を振るう。

明治5年5月、まず品川-横浜間が開通し、9月に新橋ー横浜間が開通している。         

その後も東海道線、中仙道線案、東北本線の路線調査測量を実施している。数学者で元勘定方の友五郎は測量のみならず工事費の概算まで積算できた事から登用されたと言われる。

1875年(明治8年)

友五郎のライフワークは製塩事業であった。
上総の国(千葉県)松ヶ島に枝条架式の製塩施設を作り好業績を上げていた。
1876年(明治9年)大堀(千葉県君津市)に松ヶ島の4倍の製塩場を組合立として出資者を募り着工する。

明治13年2月大堀製塩場が操業開始し業績を上げるも、10月の台風により全壊する。
翌明治14年1月に東京神田からの大火で東京の自宅、貸長屋等々を燃失する。友五郎はそれらを全て処分して出資者の求償に応じ弁済している。
その後、友五郎は多くの製塩特許を取得し各地の製塩場の指導にあたる。

1898年(明治31年)10月22日 82歳で逝去 緑綬褒章下賜・正五位追贈
法名 観月院殿塩翁広胖居士

その他にも下記のような功績も残している

1873年(明治6年)文部省の珠算廃止に反対して採択される。
1874年(明治7年)海上衝突予防規則の建言(採択)
1876年(明治9年)中央天文台の設置を建言する(不採用)
1890年(明治23年)栗本鋤雲と漢字制限に関する建言をする。(当用漢字の前身)
1892年(明治25年)魚類塩蔵業拡張を請願する。
1893年(明治26年)尋常小学校新撰洋算初歩という算数の教科書を発刊。
1893年(明治26年)富くじ解禁・開作会社創立の件を帝国議会に請願。(現在の宝くじの前身)